絵が上手い人は外科医になればいい。
写実が完璧で、光と影の理屈も正確で、色彩も構図も理論で説明できて、
“正解”を知っている人がいる。
学歴も知識もあって、どんな絵を見ても「それは anatomically 正しくない」「透視図法が狂ってる」とか、
指摘してくる人。
そういう人こそ、外科医になればいいと思う。
それだけ頭がよくて、正確に手が動くなら、きっと立派な執刀医になれる。
私も安心して手術をお願いできる。
そっちは間違えたら命に関わる仕事ですもの。
一ミリのズレも許されない世界だもの。
もちろん、それは素晴らしいこと。
技術があることは尊い。
ただ、それが画家、アーティストであるなら。
自分の作品と向き合っている人なら
いちいち他人の作品に指摘している暇はないと思うの。
そこまで完璧で他人の心配をするのなら、画家じゃなくて外科医になればいいのに、って。
私は人様の身体にメスを入れることはないから安心してね。
絵は、生きている。
感情で手が震える瞬間も、思いがはみ出して線が歪む瞬間も、全部がその人の「命の痕跡」になる。
作品の中には、その日の体温、空気、思考、迷いが全部刻まれていく気がする。
ある日私に「画塾に行け」と言ってくる人がいた。
逆に「それだけ表現できるなら行く必要なんてない」と言う人もいた。
どちらの意見も正しいのだと思う。
私は「今」を描きたい。
“上達してから”とか、“学んでから”とか、そういう未来形で語られる表現には興味がない。
だって、その「今」を逃した瞬間に、二度と同じ感情では描けないから。
独学である私の絵は技術よりも、感情とタイミングでできている。
その瞬間の体温、その日の心の乱れ、それらを封じ込められるのは「今」だけだ。
もちろん学ぶことは好きだし、日々新たなモチーフや画材で表現の幅を広げるために努力はしているし、今の絵と、未来の絵はどう成長しどう変化するのか私にもわからない。
もし精神と時の部屋があるなら、私だって入ってみたい。
いくらでもデッサンして、骨格を覚えて、完璧な構図を習得する。
でも、この身体でいられる時間は限られている。
そして、この心で描ける「今の私の絵」は、今しか描けない。
「習ってから描けばいい」なんて言葉を信じているうちに、季節は変わる。
描きたかった情景も、心の色も、全部少しずつ違うものになっていく。
だから私は、今のまま描く。
たとえ不完全でも、私の絵は私の「現在地」そのものだ。
画材が無限にあって、記憶が消えないなら、迷わず5億年ボタンを押す。
完璧な光と影を研究して、解剖学的に正しい動物を描く。
でも、それは永遠に近いがある世界の話。
現実は違う。
限られた時間の中で、限られた命の熱で描くからこそ、絵は生きる。
写真を超える絵を描くには、写真のように描くことが重要なんじゃない。
「写真では写せないもの」を描けることが大事なんだ。
絵の中の空気、声にならない気配、心の揺れ。
それを描けるのは、正確な目でも、高い学歴でもなく、“今”を表現する手だと思う。
だから、私は学ぶことを拒んでいるわけじゃない。
ただ、私にとって学ぶことは「誰かの正解をなぞること」ではなく、「私自身の正解を作ること」だ。
そしてその正解は、今日の私の手でしか描けない。
もちろん、心からこの人から学びたいと思える師匠にで合えば素直に教わるつもり。
絵を描くとは、私にとって「自分との対話」だと思う。
生きているうちに、どれだけの“今”を残せるか。
私は完璧な絵を描きたいわけじゃない。
今しか描けない絵を、できるだけ正直に描きたいだけ。
おはるのあーと/haruna manaka
